今日のタイトルは後付けです
こんばんは、柑橘類です。
今日明日(10/14)、課長はお休みです。
ああああああああん…come back…………
会社に行く時の車の中よりも、帰りの車の中の方が、いろんなことを考えてる気がします。
(『日記』って、なんのために書くんだろう?)
車の中で考えました。
書いているその時は、紛れもなく「今」なんだけど。
単語、いや、一文字(ひともじ)書いただけでも。
もうすでに、「過去」になってて。
「読んでいる瞬間だけ、あの時の『今』を味わえる」っていうか…。
…伝わってる?
多分ね。
あの時の自分と会話がしたいから。
あの時の自分の言葉が聴きたいから。
日記って書くのかな?って。
「これがあれば安心できる」「これがあれば幸せになれる」
そんな絶対的な「確か」なものを無意識に追い求めていましたが、そんなものはこの世界には無いということ…。
この世界には意味も価値も無い(のかもしれない)。自分だと思っている自分(自我)にも、意味や価値なんて無い(のかもしれない)
この【存在の証明】の面白いところは、(目の前の相手を否定した途端、 自分の存在も、なくなる。 目の前の相手がいないということは 存在していない人間の目の前にいる自分も存在しない)となり、 【他人を否定することは、 自分の存在自体を否定することだ】となるんです。
【見えているから存在している。 自分の視界から外れた瞬間、その者(物)は、 現実世界に存在していないことになる】
あのたま (id:anotama)さんの記事と、bolla (id:bolla)さんの記事。
おふたりの記事の、ここらへんの言葉を思い出しました。
(雑な引用、申し訳ありません)
なんの意味もない世界で。
どうやら、何か意味を求めているようでして。
僕はなんでも答えや意味を求めてしまうから。
もっと力を抜ければいいんだけどね。
今まで関わったことのある人達。
薄情もんの僕は、覚えてない人達がいっぱいいるから。
そういう人達は、現在、僕の世界には存在しない訳で。
思い出したその瞬間、存在が復活するのかもしれない。
……なんかうまく言えないや。
帰りの車の中で聴いてた、King Gnuの「CEREMONY」の……なんだっけ?
どこかで、全く同じ瞬間に。
全く同じ曲を聴いている人が存在するってことを考えたら。
「存在」の可能性は、無限大だと思いました。
それはいいことなのか、悪いことなのか。
よくわかりません。
「意味」って。
「存在」って。
「可能性」って。
ふっしぎー。